世間ではさまざまな運動競技団体におけるパワハラ問題で大騒ぎですね。
社員に長期残業を強いたり、恐怖や不安を与えてしまう、いわゆるブラック企業にならないために、常に自問自答をしている経営者たちにとっては他山の石ではないかもしれません。

権限と権力を履き違えることなかれ

体罰問題やパワハラ問題、あるいはブラック企業問題などは、基本的に根が一つであると僕は思っています。

これらに共通する点を考えると、

  1. 上司もしくは年長者といった階級的上位者たちが、過度な上意下達に執心している(もっと簡単にいうと、無駄に偉そうにしている)
  2. 他人にもそれぞれ大事なものがある、ということを理解していない
  3. 精神的あるいは肉体的に階級的下位者を圧迫するが、その行為は過分に感情的であり、なんの組織的ルールにも基づいていない。
  4. 組織に加わる際に、明示されていない暗黙の了解が存在している

といったことが上げられるのではないでしょうか。

例えば、僕は自分が経営する会社の代表者であり、最終的な責任者です。組織には指揮系統があり、それがなければ潤滑に動きませんから、トップダウンにせよボトムアップにせよ、組織を動かすための指令が浸透していくためのルート(つまりマネジメント)が確立されていなければなりません。つまり組織行動をするためには誰かが命令し、誰かがそれを遵守して実行に移す必要があります。

しかし、逆にいうとそれは個々の組織が定めたルールと目的に即しているべきで、例えば僕が個人的な欲求のために社員を動かすということはあってはならないことです。

パワハラやセクハラなどが発生しやすい組織の問題は、指揮系統におけるトップや中間管理職などのリーダーたちが公私混同しているということだし、指揮系統を悪用している、ということに他なりません。

リーダーたちに与えられているのは権限ではあっても権力ではありません。
権限とはマネジメント上必要として認められた職務に基づく影響力であって、権力とは職務外にも適用できると勘違いされることによって不当になりがちな影響力です。そこを履き違えてはいけないと思います。

体罰は絶対悪か?

多くの人が一度は経験したことがあるのではないかと思いますが、禅宗におけるもっともポピュラーな修行方法としての座禅。ご存じですよね?
この時、居眠りをしたり雑念を抱いたりしていると(結果として姿勢が乱れるので)、細く薄い木の棒(警策=曹洞宗ではきょうさく、臨済宗ではけいさくと読むとのこと)で肩をパシッと叩かれます。
これ、体罰じゃないか?と訴える人もいるそうですが、僕の個人的な意見をいうと、これは決して体罰ではありません。

まず第一に、最初から座禅に参加する者は、姿勢が乱れたらこの警策で打たれることは原則承知しています。第二に、決して乱打されることはなく、一回に一発。パシッと打たれるのみです。
第三に、この警策で打つ者に感情は入っていません。怒りも憎しみもなく淡々と行うのみです。

僕が思うに、本来体罰とは、それが行われるシチュエーションや回数などのルールが最初から明示されており、かつその運用がルール通りに適切に運用されている限り、必ずしも悪いことではないと思います。ある意味、法律による刑罰と同じだと僕は考えます。
また、刑罰の場合、どんな極悪人にも弁護士に弁護を依頼する権利があり、知的な交渉によって公平さを保ってもらうことができますが、有無を言わさぬ行為であったり、感情的かつ突発的に発現されたりする体罰にはルールもへったくれもないし、それは単なる暴力です。だから体罰が悪いのではなく、暴力が悪い、と僕は考えます。

怒りに任せて相手を罵倒したり、手を出したりすれば、それは暴力であって体罰と呼ぶべきものでもありません。警策による殴打は、ちょっとは痛いですが、さほど屈辱的ではないし、作法として叩く方も力任せに叩くことはないうえに叩かれた方も「警策をいただいた」ことにお礼をします。また、叩かれるときに、無言ではあっても一応警告があって、叩かれるほうも叩かれる準備をすることができるのです。
そこに感情的なものはなく、淡々と実行されるルールが存在します。

もしそれが頭や頰に当てられたり、なんども連発されたとしたら、もしくはいきなり叩かれたとしたら「何するんだ!」と怒号をあげる修行者もいそうです。つまり、互いにあらかじめ確認しあった条件のもとで、同意されたタイミングで行われる限り、それは暴力ではないのです。

(警官は拳銃を持っていますが、たとえ悪人に対してであっても警告なしに撃ち殺したとしたら、それは殺人という名の暴力をふるったことになります。法に基づかない刑罰は私刑=リンチであり、それがどんなに正義に即していたとしても法治国家では許されるものではないのです)

その意味で、例えば体操の宮川紗江選手と速見コーチの体罰問題の場合、たとえ愛の鞭といえども、突発的に手を挙げていたとしたらそれは怒りに近い感情の発露であり、上記のような”許されない暴力”の一つであると僕は思います。選手本人が受け入れていたとしても、それは関係ありません。今時はそういう”暴力行為”自体許されないのですから。

フラットで風通しのいい組織に体質改善しましょう。

ここで本来の課題、ブラック企業になったりパワハラがまかり通るような組織体質にならないようにするには、どうしたらいいのか、を考えてみたいと思います。

新興のベンチャー企業は、その成り立ちからしてダークサイドに落ちやすいとは思いますが(組織として未熟だし、起業家がリスクを圧して決死の覚悟で立ち上げるため、社員にも同じような覚悟を強いることが多い・・・)、それでは結局いい社員は集まらないし、社会的意義を果たしていくためにも良くありません。

ここは21世紀のベンチャー企業として、”昭和”世代特有?のガンバリズムや気合い・根性路線ではなく、爽やかかつ軽やかに成長を目指せるライトで科学的な社風を作りたいではないですか。

とりあえず、当社自身や、当社が見習いたいと思っている企業にみられる、良好な特徴、または改善すべきポイントを挙げていってみましょうか。

互いを職制で呼ばない、呼び捨てにしない

今時、職制で互いを呼び合う企業(=名前ではなく、社長!とか部長!などと呼ぶ会社w)は少ないと思いますが(ましてベンチャー企業ならば)、もしそうだとしたら、かなり昭和的な社風であると言えるでしょうね。万一2019年の忘年会時期でもそのままだとしたら、昭和的なカルチャーを平成時期も引きずったまま新しい元号にまで持ち越した平成JUMP企業、と呼ばれるかもしれませんよw。本来は「結婚をしないまま、平成を終える昭和生まれの人」を指すスラングだそうです)

●根会長!みたいな呼ばれ方をしていると、やっぱり権限と権力を履き違えてしまうのだと思います。もちろんそう呼ばれていたとしても民主的なリーダー気質を持ち続ける経営者は多いですが、できるなら早めにやめたほうがいいと僕は思いますよ。

そしてもちろん部下を呼び捨てにするのもNG。ジョニーとかアンジェラとかファーストネームで呼び合う外資企業的空間はいいと思いますけど、相手をリスペクトして呼び合うほうが、社内の空気はいいと思います。友達の集まりじゃないんですから。
それに、相手を敬称つき(●●さんとかね)で呼べば、そのあとの言葉遣いも汚くはなりづらいというものです。ぞんざいな話し方をしているということは、相手をぞんざいに扱っていることと同じですから。

ちなみに、よく銀行の方とかに来社いただくと、みなさん僕のことを「社長」と呼んでくださるんですが、実はアレ、僕は大嫌いなんです。社長とか課長とかのように呼ばれたい人もいるかもですが、僕は嫌いです。名前(苗字)で呼べよと思ってしまいます。
まあ、無数にある会社を訪問して、経営者に会うわけで、名前を覚えきれなかったり間違えたら申し訳ないから職制で呼んでおけばいい、と思ってらっしゃるのでしょうし、馴れ馴れしいのを嫌う経営者もおられるのでしょうが、僕はとにかく嫌いなんです。

なので、リボルバーでは僕を社長と呼ぶ人はいません。僕もまた社員を呼び捨てにすることはありえません。部下ではあっても社外に出たら、個人と個人の付き合いですから。

多様性を担保する

実は当社の株主の1人から、ある多国籍軍的なベンチャーのことを紹介してもらったんです。そこは日本の企業なんですけど、外国人スタッフのほうが多いくらいで、多種多様な国籍・人種で構成されていて、とってもフラットかつアクティブだと教わりました。要は多様性を持つ会社にすることで、多様性のある企業カルチャーになるよ、ということです。

僕は初めて起業したのが多民族国家で知られるマレーシアの首都クアラルンプール(KL)で、当時はマレー人、インド人、中国人(みな、マレーシア人であるわけですが)ばかりだった経験を持ちます。宗教も人種も違うスタッフが、一つの目標のもとで集結して働く。いわば複数の異文化を内部に持ちながら一つに結束する組織です。管理する難しさはなくはないですが、確かに目に見えて多様性を担保できます。

よし、ウチもそうしよう。
早速僕は動き始めて、実は2人ほど中国人(中国国籍とカナダ国籍)に内定を出し、入社に同意してもらうところまでこぎつけました。

人間には、誰でも人とは違った信条や大切な何かを持っているものです。そのことを理解して初めて我々は寛容になれます。それは人種とか国籍とかの別だけでなく、性別(男女、LGBTなど)や年齢など、さまざまな違いが存在します。それらの違いを、みんな等しく同じになれというのではなく、互いの違いを認め合ってリスペクトする空間。そんな組織を作ること。いつ完成するかではなく、常によりよい状態を目指していくこと。それが正しいカルチャーを育んでいく最上の方法であるように考えています。

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