アルファベットに順番があるように、仕事のやり方にも順番がある
「泣いて馬謖を斬る」と言いますが、軍隊において指揮官の指示に従わず、自分勝手な判断で動いたら例え優秀な人材でも罰するべき、という教えですね。
一般的に「泣いて馬謖を斬る」というと、腹心の部下や仲間を切り捨てるときに(ある意味自己弁護というか、俺が悪いんじゃないよ、仕方なくやるんだよという感じで、自分の冷酷さを隠す意味で)使うことが多いみたいです。ただ、本来の意味ではあくまで指揮官が下した命令に対してむやみに反することを戒める為の言葉です。
世の中には(人類の長い歴史を見ても)命令に従わず現場判断で勝負をして、成功する人もいるし大失敗する人もいる。成功した人の多くは英雄扱いされて、失敗した人はバカもしくは落伍者とされます。でも、本来は指示に反することをやったら、それ自体ダメってことなんです。”現場の判断”は確かに大事で、指示を受けたその時点とは状況や条件が変わっているということもよくあります。
ただし、三国志や孫子が活躍した時代とは違って、これだけモバイルが普及した現代ならば、状況が変わったなら、それを報告した上で再度指揮官に指示を仰げばいいわけですから、現場判断を強行するような事情はそうそうありません。
極地での戦争ならいざ知らず、少なくともビジネスの場においては、指揮官に指示を仰ぐ暇も隙もないなんてことはなかなかおきません。
だから指揮系統を無視するような局面になることなんて滅多にない。なのに指示に従わないで勝手に動くということは、やはり単なる命令違反だし、指揮系統の重要さ、指示を遵守することの大切さを理解していない、軽んじている、ということになるでしょう。
「最近の新人は、先輩から教わった仕事の手順を平気で無視するんですよ」と知人にぼやかれたことがある。
守破離。最後は独断で受けるようになるにしても、最初は愚直に指示を守る時期があるはず
「泣いて馬謖を斬る」というのは、稀代の智将 諸葛孔明が下した命令を勝手に無視して軍功を焦った馬謖が、結局大敗を喫し、その罪で断首されるという故事に基づいた言葉です。馬謖自身、孔明の寵愛を受けるほど才能溢れる将軍でしたが、それはそれ。勝手な行為で軍と国家に多大な損害を与えたのだから、斬るほかない、と孔明はそれこそ公明な判断を下したのでした。
つまり、馬謖ほどの人材でさえ処罰を受けた。勝手な判断で動く人は馬謖並みの才覚があると信じているのかもしれませんが、それって勘違いじゃありませんか?と自問自答するべきですね。
守破離、という言葉があります。
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。武道等において、新たな流派が生まれるのはこのためである。
「本を忘るな」とあるとおり根源の精神を見失ってはならず、基本の型を会得せずいきなり個性や独創性を出すのは「形無し」である。無着成恭は、「型がある人間が型を破ると『型破り』型がない人間が型を破ったら『形無し』」と語っており、この「型があるから型破り、型が無ければ形無し」は十八代目中村勘三郎の座右の銘としても知られる。
まずは言われたこと=指示を頑なに「守る」。それがいちいち考えなくても身体で覚えて遵守できるようになったら、今度は創意工夫を入れて指示以上のことができるように既存の型を「破る」。最終的には自分なりのやり方を編み出して自分が指示する側に回る=「離れる」。
これが武道、芸道の基本な訳ですが仕事でも全くもって同じです。更に言えば、守破離には順番があって、離破守、ではないわけです。まずはちゃんとできるまで指示通りやってよ、それが指揮官、上司、リーダーの切なる願いです。
こういうやり方ではどうでしょう?と進言することは構いません。ブレストして、よりよい方法にたどり着くことは有効です。でも一度プロトコルが決まったら、その通りにやりましょう、勝手に変えることなく。
それがルールであり組織を強くする唯一の方法なのですから。